あがり症のカウンセラーはありか?

あがり症のカウンセラーはありか?

カウンセラー派遣の会社で働きはじめて1年が経っていた。

ここでの学びはもうない気がしていた。

セミナーの運営の流れやノウハウが全部アタマに入っていたし、それほど複雑なことではなかった。

僕はカウンセラーとしてデビューしたかったし、そのチャンスのこの会社にいることによってあったのは確かなのだが。

自分でブレーキを踏んでいました。

 

見出しあがり症のカウンセラーありえないでしょ!

あがり症のカウンセラーありえないでしょ!
「あがり症」である自分が人のカウンセリングをするというのはやはり、自分のなかで納得ができなかった。

そんなの関係ないという考え方があるのも分かっている。

夜の中英語が話せないのに、英語を教えている有名な先生がいて、その特集をテレビでやっていた。

しかし、自分の「あがり症」を克服できないカウンセラーがいても全然ありだと、頭では考えるのだが、気持が納得できなかった。

今思うと、そういうこだわりが、「あがり症」という問題から抜け出せない要員になっていると言える気がするのですが、、、

どこかで、とても頑固で譲らないところがあったのだ。

僕はもう少しこの業界にいたかったので、このバイトを続けることにした。

その時付き合っていた、彼女はいつも、カウンセラーデビューしたらいいじゃない?とよく言っていた。

その度に、うーむ「自分があがり症なカウンセラーなんてだめでしょ!」といつも言い返していた。

そうすると、
きっとそこなんだよ~ あがり症のカウンセラーなんて最高に面白いよ!ユニークすぎる!面白すぎる!そんな考えになったら「あがり症」が逃げていくよ!

講師になって良いかもよ! あがり症の講師なんてもっとおもしろい!

などど、冗談とも本気ともとれることを、よく言っていたのです。

でも僕はどうしても納得いかなかった。

自分がこの問題を解決するのが先という考えから抜け出せなかった。

僕のこのこだわりがあがり症に引き止めている要因になっているというのは、>>>このプログラム<<<を見ていてなんとなく分かってくることになりました。

 

見出し本心はカウンセラーになりたかったわけでない

本心はカウンセラーになりたかったわけでない
結局僕はカウンセラーになることはありませんでした、

それは、それが楽しくなかったのです。

しかし、当時は自分がやっていることに何らかの意味を無理矢理にでももたせたかったのです。

カウンセリング関連の会社で仕事をし、お金をかけてカウンセラースクール通っている自分がいて、それをしているには正しい理由があり、「その理由はカウンセラーになるためだ」という理由がほしかったのです。

そうでないと、自分が全く無意味な選択をしているということになってしまうと考えていたのです。

自分の選択を正当化するための、明確でわかりやすい理由がほしかったのです。

馬鹿みたいです。

奥底の本心ではカウンセラーになることには興味すらなかったのに、カウンセラーになりたいと言い、さらにそれを否定するという面倒くさいことをしていたのです。

しかし、今になってよく分かるのは、自分の人生で自分が選択していることの本当の理由を、明確に理由付けすることなんて不可能であるということ。

自分の行動と選択の本当の理由を、人間はほとんどしらないというのが実態です。

僕が大学に進学した理由はなにかと聞かれたら、

  1. 地方から東京にいき、変化を作りたかった
  2. 大学に行ったほうが先々有利
  3. なにか学べることがある

などと、答えるかもしれません。

しかし、こんな理由は表面的な後付の理由でしかないのです。

本当の理由はこんな単純なものではなく、もしかしたら学歴がないことへの強い恐怖、あがり症である自分が生まれ育った土地から逃げたしたいなどの理由が複雑にからみあって東京の大学へ進学するという一つの選択を行っているということが今では分かります。

質問してその場で最初に口から出て来るような領域には、人間の本心は存在していないのです。

普段自分では触れたくない、見たくない領域に手の伸ばすことでしか、自分の本心を垣間見ることはできないと思うのです。

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