彼女と別れてから何度か合コンの誘いがあった。
それ移行、無意味に参加するようになった。
そんなに彼女は欲しかったわけではないのに、どうせ付き合っても長続きしないという自暴自棄の気持が反転して、ゆがんだ気持で参加していた。
そのときの、状態は純粋なものへの反発と怒りと不信感みたいな感情が僕の中に渦巻いていた。
それは、心から欲しいものを手にすることを、自分が自分に許可することができないとう状態でした。
その反発から、本当に求めてもいないものを手にするゲームに興じるようになってしまったのです。
麻友の言葉がこだまする
大学2年のときは、そんなゆがんだ気持ちで過ごす日々が続いていた。
合コンの話や、バイト先の飲み会などへ参加するようになった。
回数が増えると、合コンで自分に注目が集まることがあってその度にあがって言葉がでなかった。
その度に場を凍りつかせた(笑)
なんなのこの人、という奇怪な存在になる。
昔なら場を凍りつかせた自分を、その後何日も何日も責め続け、情けなくてどうしようもない気持ちになっていました。
しかし、その当時の僕は、あがる自分に逆ギレしていたようなところがあり、自分が場を凍りつかせたことに対して、不遜な態度でいた。
だからなんだ!みたいな顔をしていたのです。
僕はヤケクソだった。
でも、どういうわけか結構モテた。
そして、時々付き合った娘もいた。
しかし、その頃付き合った相手はあまりいい娘はいなかった。
心がすかすかで、人にどう思われるかを軸に生きているような娘ばかりだった。
ちょっとつまらないことがあると、直ぐ機嫌がわるくなり、別れが訪れた。
今思うと、僕の荒んだ心がそういう娘を引き寄せたのだと思う。
そういう生活をしばらく続けていた。
「あがり症」のせいにして自分の人生を粗末にしていた。
麻友のように。
僕に説教してくれるような娘とは出会うことはなかった。
ときおり、麻友の口癖だった。
「あがり症」なんて個性の1つでしかないよー
それが悟史なんだよ~
そのままでいいんだよ~
この言葉が頭の中をかすめる。
しかし、いつもそれをかき消した。
そのままで良いわけないんだよ!
という思いが、僕の心に強烈な接着剤のように貼り付いて離れなかった。
心療内科であがり症を治すことを検討し始める
その頃、始めて「心療内科に行こうと思い始めた。
ネットであがり症につて検索していたら、個人サイトがあって、あがり症で悩んでいて、心療内科に通っているということを書いているのを見たのだ。
いままで、「あがり症」を心療内科で治すという発想がなかった。
そもそも医者がこの様なメンタルな問題を解決できるとは思っていなかったし、このことを人に相談することにものすごく抵抗があったのだ。
しかし、病院で本当に治るなら行こうと思った。
当時は、今程ネット上には情報がなく、近隣のできるだけ大きな病院に行くことを考えた。
うつ病の蔓延により、今なら、メンタルの問題に注力している病院があるけど、当時はそんな贅沢な選択肢はなかった。
電話帳で住んでいたところの近くで、できるだけ大きな病院を探し目星を着けた。
あがり症のことを、別の言い方で、「社会不安障害」という言い方をしますが、それは今ほど知られていなかった。
メンタルな問題を抱えていることそのものが、恥ずかしいことだったし、人に言えるものではなかった。
今ではうつになった人が普通にその体験を語っている風景を目にすることはよくある時代になりましたが、当時はうつになんてなってはいけない病気だった時代でした。
その時代に「社会不安障害」なんて誰にも明かしたくなかったし、意味を理解されないだろう。
僕は医者がそもそも嫌いだった。
その嫌いな医者に、「あがり症」という誰にも明かしたくない事実を明かすことはかなり抵抗があった。
↓当時買った本。
社会不安障害/デイビッド・V. シーハン (著), 貝谷 久宣 (著), 宮前 義和 (著), 林 恵美 (著), & 8 その他
難しくて全く頭にはいらなかった(笑)
絶版になっていて、古本でしか手に入らないようです。
>>このプログラム<<を創った先生なんかは、この辺の事情をよく分かっている人だと思う。
「あがり症」という「社会不安障害」は人から理解されることが、難しいという事実も踏まえて上で、この問題に取り組む必要があると思う。
あがり症は、うつと違って病気と認定されていない。
昔はうつになることで、メンタルでやられるなんて弱い人間だというレッテルを貼られ、社会での自分の評価を大きく下げる要因になっていましたが、その人口が増えたことで社会としてもケアしなければならないという風潮が生まれました。
うつになることは、マイナス要因ですが、昔と比べたら冷遇される度合いは低くなったように思います。
しかし、あがり症という「社会不安障害」に関しては、世間の理解は現在でもまったくないに等しいでしょう。
企業の中では、人前であがってまともに話ができない人間に対しての扱いは、理解などはなくただ使えない社員として冷遇される対象になるというのが実態です。
会社としては、あがり症の人間は欠落者であり、利益に貢献しない無用な存在でしかないのでしょう。
あがり症の人に対して理解を示し、その人の特性を見抜き、それに適した職務を任せるなどというような、風土は今の世界に存在しない。