自分があがり症であることで、今まで失ってきたことはなんだろうか?
そんなことを、ときどき考えます。
もし、多くの人たちのように、普通に人前で話ができるという人生だったとしたら、今の自分の人生と比較してどんな違いがあるのだろうか?
あがり症になったことで失ったものは?
もし、あがり症になんかなっていなかったら、どんな人生になっていたのだろうか?
周りにはあがらない人たちがたくさんいて、その人たちを見ていると、たまらなくうらやましいと思うのは本音である。
中学、高校、大学、社会人と進むなかで、どんどんプレゼン能力の重要性が高まっていくのは、誰でもわかると思う。
この能力が、自分への評価に大きく影響するも事実だし、その傾向は年齢が高くなるにつれてどんどん大きくなるのも事実。
実際の能力がより低く見積もられるのは「あがり症」の宿命だと思う。
自分が実際に行動して、その成果を何らかの形でアウトプットする際に文章や個別の面談でのシーンなら問題はないけど、複数の人間の前でそれを行うことになった場合は、そのアウトプットの評価が非常に小さなものになってしまう。
それによって、失ってきたことはたくさんある。
カラオケがダメ、人気、就職、彼女、楽しむ機会。
なんか、たくさんあるはずなのに、あんまり出てこない。
ちなみに、彼女というのは、やはり、人前でなにかアピールできないヤツには女性はあまりよってこないと思う。
僕は、女性と1体1ではあがらないけど、それ以前に合コンで盛り上がったりできないし、目立つ行動を避ける傾向が強いので、必然的に女性から人気をえることが難しいのである。
それと、あがった姿を見られてしまったときは、もう一巻の終わりという気持になり、それを見た女性が好きだった娘の場合は、自信をなくすので、誘ったりできない。
あがり症であることがバレるということが、恐怖でありバレたらその人との関係性を創るのが困難に思えてしまう。
あがり症=価値のない存在
という式が自分の中に厳然と存在しているのである。
あがり症になったことで失ってきたものは、想像以上に大きい気がします。
そして、自分に価値を感じることができないということに、集約されているのではないかとも思います。
あがり症になったことで得たものはなんだろうか?
10代、20代のときには、あがり症になったことで得たものなんて何一つないと思っていましたし、そんな質問は自分にできなかった。
馬鹿言ってんじゃね~よ、得たことなんかあるわけないだろ!
と怒りすら覚えていました。
しかし、今になるといろいろとあるといえばあるのです。
羅列してみます。
- 心理学を学び、人の心理について詳しくなった
- 権威に振り回されなくなった
- 自分の欠点を許す方法を見つけることができた
- 本質的な幸せについて考えるようになった
きっともとあるはずですなのですが、書き出してみたらこの程度しかでてこない、、、、、
少なくとも言えるのは、あがり症になったことで欲しいのに手にできないという体験を通して、人間の本質とはなんなのかという問が自分の中に生まれ、それを自分なりに探求するようになったこと。
それが良いことなのかどうかは別にして、あがり症になっていなかったら、もっと人生はうまく周り、そのときどきの出来事を楽しむことができたかもしれないけど、それによって表面的な成果を楽しむことに終始する人生になったのではないかと思うのです。
緊張をほぐす
“志村けんさん”がなんかの番組で、「舞台は毎回恐怖で緊張しまくるし、本当に小心者なんだ」と言っていた。
そして、出番前には、リラクゼーション系の落ち着く音楽を聞くときがあるとも言っていました。
本当だろうか。
きっと、その緊張の仕方があがり症の人とは違うのだとは思う。
ものすごく緊張するのかもしれないけど、その緊張と自分がほぼ対等な関係で、あがり症の人は自分を緊張が圧倒してしまう。
これがあがり症という領域な気がする。
“志村けんさん”の話を聞いたとき、当時you-tubeなんてない時代には緊張を和らげるために、人前で話す状況をイメージしながら次の様なCDを聞いていました。
人前で話す=リラックス
というつながり(心理学用語でアンカーという)を作りたかったのです。
それで一発であがり症がなくなったなんてことは起こりませんでしたが、いろいろ工夫していると少し緊張する度合いが減った気がしました。
ここ数年ですが、次のようなあがり症克服のノウハウにも取り組んできました。
催眠の要素が含まれており、その点が私にとって貴重な手法が書かれていました。